もう一度考える

憂鬱な正月休みでした。こんなに鬱屈した気持ちになるとは思ってなかった。
今日の記事はなにも音楽関係ないけれど、許してください。
人が亡くなるときって大体実感がわかなくて、4年前に曾祖母が亡くなったときもだし、岩井直溥さんのときも、真島俊夫さんのときも、近所のお寺のお坊さんのときも、全く実感がわかなかった。曾祖母に関しては、未だに存命でいる気がする。
訃報を聞いて、それをすぐに受け止めて、悲しんだり、それでも前を向いて進むことを決めたりできる人たちがすごいと思う。私は悲しむ前に、まず訃報を受け止めることができない。言ってることは分かるけど、現実の出来事だと思えない。
彼は私の1つ上の学年だった。私もいつ溺れて死んじゃうかわからない。死にたいって思ってた時期もあったけれど、少なくとも今はやりたいことも会いたい人も沢山だから、まだ死にたくない。会いたい人には、今すぐにでもあっておくべきだ、ということを、改めて胸に刻む。
溺れたとき、何を考えていたのだろう。怖かっただろうか。死にたくない、と思っただろうか。助けて、と叫びたかっただろうか。仲間の顔が脳裏をよぎっただろうか。あまり苦しまなかったといいな。
神に愛され過ぎたのだろう、と呟く人を見た。その言葉に救われた。
彼らの動画を久し振りに見た。遊園地ではしゃぐ姿、とても楽しそうだった。22年間、楽しみきった人生だったのか。正月休みの海外旅行も、現世の楽しい思い出になれば良かったのに。
もう彼が写った映像が、新しくこの世に生まれることはないんだな。
曾祖母が亡くなったとき、火葬の音を聞きたくなくて、火葬場の外で妹とずっと待っていた。雨が降っても、傘をとりに行くときに音が聞こえたら嫌だから、そのまま濡れていた。骨壷に遺骨を入れることもせず、ただ外で怯えていた。
あの火葬場で焼かれてしまうのか。棺ごと、重くて無機質で無慈悲な、あの扉の向こうに運ばれてしまうんだ。生前の華々しさとか努力とかユーモアとか優しさとか、あの扉の前では何も通用しない。等しく機械音と共に吸い込まれていく。
熱心なファンではなかったし、最近はYouTuberの動画自体から離れていた。人の死によって再び動画に触れることになるとは、なんたる皮肉なことか!悔しい。ずっと毎日追いかけていれば良かった、とは思わないが、もう少し、最近の彼らが何をしているかくらい知っていたかった。知ったところで彼は死ぬ、死んでしまったのだけど。
便りが無いのが良い便り、なんて言うけれど、全く便りが無いのはとても不安だ。どこかで行き倒れているのではないかと、過剰に不安になる。多分私も不安にさせている。生きていますよ、元気でいますよ、と知らせれば、きっと喜んでくれるし、私も嬉しい。
陳腐な言い回しだけれど、元気でいるときは、できる限り、生きている今を大切に扱うべきなんだ。生きている彼らを大切にするべきなんだ。今さら、好きだ応援してたとわめいたって、どうやったって死んでしまった彼らには届かない。
生きよう。生きるために歯を磨いて、明日のお昼のおにぎりを握って、寝よう。生きて、作りたいもの作って、会いたい人に会って、食べたいもの食べて、聴きたい音楽を聴こう。知りたいことは勉強しよう。私はいつまで生きていられるだろう。生きている間にどれ程の何ができるのだろう。

花月こころ

ベルギー近現代音楽が主な狩場。最推しはヴァンデルローストとポール・ジルソン。ブラスバンドでコルネット。

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